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今日のミントティーとマインドフルネス -死がなぜ怖いかについて考えてみる

 
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 略歴:渡英後すぐ、イギリスの某大手IT企業に就職。IT/マーケティング資料/サポート記事の翻訳や校正を現役で担当中。ローカライズ歴5年目。プライベートでは、現地で結婚。夫婦の共通言語は英語。

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なぜ死が怖いかについて考えてみる

 今回は、マンドフルネスエッセーの一環として、少し濃い話題について考えてみたいと思います。

 ペッパーミントティーにミントを一掴み入れて、ほっと冷静に考えて見ましょう。

 なぜ、死は恐ろしいかということ。

人間は、生きている動物ですので、戦争などで故意に死ぬアクションを起こさなければいけない時や、故意でなくとも事故に遭ってしまった時など、「もし、ここで死んでしまったら」と考えれば、それは恐ろしいのは当たり前の事です。

 想像を絶する痛みがやってくるかもしれません。それは誰にとっても恐怖ですよね。でも、痛いかもしれないから恐ろしいということが原因で、死を恐ろしく感じるのでしょうか?

 例えば、自然な形で老人になり、死期が近づいて大往生できるとすれば、それでもまだ、死ぬ時にはどこか痛かったりするんでしょうか?

 実は最近、立て続けに親族を2人亡くし、それでふと考え始めました。まるで元々存在しなかったように、自分の知っていた人が、自分の見知った世界からいなくなる。

 この自分の知っている世界と、突然起こった未知の、つまり「自分を知っていた人がいなくなった」という世界の温度差が、私には、とても耐えられないほど不思議な事のように思えました。

 古代の人間が、もしくは科学が発展した現代の私たちであっても、もし、どんな形であれ、大切な人が急にいなくなってしまったら、ナンセンスだと知りながら、「あの人はどこへ行ってしまったのだろう」と考えるのは当たりまえですよね。

 つまり、そういうとき、「いない/存在しない」という事実を、私たちは、ただ、理解できなくなります。

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大切な人の喪失

 これはちょっとだけ、もう二度とあなたの恋人には逢えませんというのと似ています。あなたは恋人に会わないと決心しただけで、その後その人が生きているのか死んでいるのか、本当は知りません。もう死んでしまっているのかもしれません。

 でも、あなたはその恋人と別れると決心して、もう思い出さないと決め、前を向いて歩き始めた。だから、大丈夫。あの人が死んでいても生きていても、幸せでも不幸でも、私には関係ない。私は生きていける。

 そんな時、そこには、あなたが持っているあの人との思い出を「思い出さないでいい理由」が存在します。もしくは、あなたが「なぜ彼との思い出を持っているのか」の理由すらちゃんとそこにあります。そしてまた、どうしてその思い出が未来につながらないのかにも、あなたの中ではちゃんとした理由があります。

 あなたがそう選んだからです。だからあなたは理解して、先に進めるのです。

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喪失vs自己の消滅

例えば、今例えば大切な人がいなくなってしまって悲しいけれど、そういう、「存在しなくなる」という事が他人に起こり得るという事は、裏を返せば、将来同じ事が自分にも、起こり得る訳ですよね?

 死は平等のはずです。全員がその体で受け止めなければならない運命です。死を通過し、そこで終わらない人など、いません。

 それで、そういう時はどういう心構えでいればいいのだろうと、今回、自分とは何か、心とは何か、時間とは何か、そういう抽象的な事を考えるためのマインドフルネスエッセーにおいて、これは避けて通れないと思ってしまった訳です。

 自分の死というのは、自分の家から何か物がなくなることではありません。自分の親しい人にもう会えなくなるというのとも違います。それらは、どちらも「自分/私」という存在が「喪失」を体験しているにすぎないからです。

 己が死ぬというのは、それとは違う、きっと、もっと、別次元の事です。「私(自分)が何かを感じている」というのとは全く別の領域にあるものです。しかも、誰にも解らない事です。

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宇宙の美しさと恐怖

 小さい頃、例えば宇宙の存在を初めて学んだときの恐怖を、私は時々思い出します。宇宙という、美しいけれど、空気がなく、意味のわからない、人のコントロールがきかない所に一人存在するという恐怖。

 もしくは深海で、空気がなく、光がなく、ただ一人で、コントロールできない外界と立ち向かわねばならない恐怖。

 これを解消しようとして、つまり恐怖を克服しようとして、人間の知識は増えてきたのかもしれないと考えるのはネガティブすぎるかもしれません。けれど、解らない物を秩序立てて解ろうとする、カテゴライズしてコントロールしようとする欲求は、それが知識だとするならば、それは例えば猫にはありません。

 猫は宇宙の神秘に興味を持つでしょうか?きっと考えても仕方がないけど、考えたくなったら誰かがもう考えてるんだからもういいんじゃない的な立ち位置で、きっと今日一番楽しかっただろうことを考えていますよね。

 人間は臆病な生き物です。しかしそうやって苦しんで、理解しようとしても、己の死は、決して理解できません。己の死を本当に理解するだろう時には、すでに己は存在しないからです。

 しかし理解したい。苦しい。その時に備えたい、己が苦しまないように、どうなるのか考えて、全部用意してしまいたいと思ってしまいませんか?

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理解は風まかせ

 そこで宗教が生まれます。疑問と不安で腫れ上がった心がそこに着地できる。しかしこの事を、理屈だった言葉で説明してしまう宗教は全て嘘だと、私は個人的に思っています。本当の宗教など存在しないとも思います。ただ己が確実なものを掴みたくて迷っている心と、肉体の終焉という事実がそこにあるだけです。

 例えば禅宗では、誰も説教をせず、ただ本人が禅問答と共に坐禅をしますよね。もし、どうしても恐怖ならば、ただ座ってみるのはいいかもしれません。座禅で座ってみるのは無料ですし、洗脳のように、何かを吹き込まれるわけでも何かを理解しなければならない訳でもないからです。

 しかしもし、誰かが今そんな恐怖で苦しんでいるとしたら、一旦考える事はやめて、例えば、そこらへんに生えている草の主観を完全に理解することを考えてみてください。

 ここでは、人はその草ではありませんから、人は一生草になることはありませんので、一生理解できません。でも、この世界で一緒にいる事ができますし、草は生きて、そしてその草も死にますね。

 人が全てを理解できると思うのは、ただの傲慢です。しかしそこに自然の救いがあるかもしれません。

 「死」という、空気のない宇宙の世界で、一人きり立ち向かえと言われているように – まるで人智を超えたものを、一生懸命理解しようとしてはいないですか?

 つまり、生きている内から、死ぬことについて考えるから、恐ろしいのではないですか?

 解らないものは、解らないまま置いておいて、今日は、これから好きな景色を見ませんか?

 解る必要は無いんです。誰がどれだけ生きているから損だ特だとか幸だ不幸だという価値観も存在しません。

  理解は手放しましょう。

 あなたが笑う事ができれば、それで、いいんです。今日はお茶でも淹れて、ほっとしましょう 🙂

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英国古本屋ライター:K・T・エリーズ

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