マインドフルネスエッセー -繰り返し現れる嫌な記憶を処理し、ネガティブな自分の物語を手放す方法
略歴:渡英後すぐ、イギリスの某大手IT企業に就職。IT/マーケティング資料/サポート記事の翻訳や校正を現役で担当中。ローカライズ歴5年目。プライベートでは、現地で結婚。夫婦の共通言語は英語。
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嫌な記憶の処理
フラッシュバック
フラッシュバックとは、特にひどいトラウマ体験をした際に、その体験を言語化をして処理する事ができないまま葬り去られてしまった、普段生活する上では意識まで上ってこない記憶が、何らかのきっかけによってふと現れ、当時の姿のままで本人を苦しめる事を言う。
Anxiety
フラッシュバックまでは行かないまでも、何度も何度も、特に時間の隙間を縫って嫌な記憶が蘇り、特には夢の中でさえも本人を苦しめる事がある。
これを、英語ではAnxietyと言う。これは例えば、日常生活の中では強い心配性と不安の中間として使われる場合もあれば、不安神経症そのものを指す場合もある。
このAnxietyを抱えている人は西洋人にも意外に多く、近年始まったヨガブームと相まって発展したヨガ・ニードラと、認知行動療法(Cognitive Behavioural Therapy)と、マインドフルネスを合わせたような瞑想を提供する団体も結構多いし、またそれらを利用する人も少なくはない。
この観点から見て、私が生きて来た人生を振り返ってふと思うのは、そう言えば、私の人生で出会った人には、このAnxietyを持つ人と、持たない人の二種類がいる、と言う事である。
Anxietyを持つ人
この、繰り返し繰り返し、とある嫌な感情を追体験させるべく現れるAnxietyを持つ人は、一緒に暮らしてみるとすぐ分かる。彼らはプライベートで安心できる空間に身を置くやいなや、(と言うのもそれは、彼らが何かしら忙しくしている時間の隙間を縫ってほっとした時にこそ現れやすいので)、自分自身に罵倒を浴びせるように、短く声高に叫んだりする。
「ああ嫌だ!」とか「やめて!」とか、「もう死にたい」とか、「ダメだ、」とか「NO」、「クソ!」であるなど、多種多様だが、共通している事は、全ての言葉はネガティブで、小さな悲鳴に似た苦痛の叫びであると言う事だ。
特に、同じ人は同じ場面を思い出すため、いつも同じネガティブな言葉で小さな悲鳴をあげる。
そこでふと思う。父はいわば悲鳴の人だったが、母から一度も悲鳴を聞いた事がない。と言う事は、そもそもそう言う嫌な気分を、別の処理法でどうにかしているか、そもそもそう言う気持ちを持った事がないかのどちらかである。
自分の物語
それぞれの自己肯定感
私は突然イギリスに来て、イギリス人の現在の夫と結婚し、何やら運が良かったため翻訳関係の会社に勤めている。余暇には、こう言うマインドフルネスの本を読んだり、ヨガ哲学を読んだり、ファンタジーを読んだり、時々、好きで美学や精神分析学の本も読む、以前ヨガインストラクターの資格RYT200も趣味が高じて運よく取れたので、今では自分でヨガをしたりもする。
特に自分が送っている生活には満足しているのだが、こちらに来て、それなりの人数の人と出会い、会話をし、その異文化の生活の中に身を浸して思う事がある。
こちらにいる日本人は、日本にいる日本人よりも自己肯定感が高いが、西洋人が彼らの文化の中で重んじて来た「自己肯定感」には到底達する事ができないのではないかという事である。
根本的に、様々な全く違う思想を、一人一人がそれぞれ肯定し認め合いながら出来上がってきた多文化社会のイギリスと、違うものは排除/否定するが、出来上がった平均的な人間の中にいて獲得できる安全性/安定性を重要視する日本社会とでは、根本的に自己肯定感という言葉自体がだいぶ違うものを指している気もする。
何にせよ、多文化社会の中で彼らはもともと自己肯定感の重要性を大きく買われている中で育っているので、もし何かで失敗を体験したとしても、その失敗からでさえ自己肯定感を自己のうちに育むのが上手いか、下手であれば上手くなる方法を探す。例えば過去に流行った自己啓発群、今のマインドフルネスやヨガブームなどもその一環であると思う。自己を肯定しすぎて妙な道に走っている人も多いけれど、それはそれで別の話だ。
自己肯定感の低さ
私は努力をする事は好きだけれど、努力をしたからと言って、誰かと競うため/誰かをコテンパンにするために努力をしているのではないし、例えばスポーツをやってそういう競争/競争社会の中で己と人を比べる事で、自己肯定感が上がった試しがない。
自己肯定感というと「いや、自分はこんな事で褒められるには値しない」などという観念が湧いて来て、どこか薄ら気恥ずかしい気分になったりもするので、そう言うこちらにいる日本人の中でも、いや、日本にいても、自己肯定感はかなり低めであると思う。
自己肯定感の低さというのは、そもそも「自分を疑う」というところから発症させられている。例えば、簡単な例で言えば、何も考えずに会社に行くために車を運転すれば上手く行くのだが、あれ、ブレーキは右側にある?左側?などと余計なことを考え始めると一気に次に踏み込む足に自信がなくなる。むしろ逆に事故を起こしてしまうかもかもしれない。これは、自分の体が覚えていることを「疑う」ところから始まっている。この「疑い」の出現は、日常生活におけるいろんな場面で当てはまる。
しかし、例えば美学や哲学の本を読む時に、「自分はここで言われている事を本当に理解しているのか」と己に問い続けなければ、間違って解釈したまま一生を終えるかもしれない。それは嫌だ。つまり、己を疑うのにも、信じるのにも、バランスが必要という訳だ。
ちなみに、この行きすぎた「疑い」を、仏教では、煩悩をチラつかせて瞑想する釈迦を邪魔する「魔羅(マーラ)」という神に例える事がある。魔羅(マーラ)は死に関連する神だと言われている。いろんな解釈があるだろうが、ちなみにヨガ哲学でも魔羅(マーラ)を例えに出す事がある。
自分が信じるネガティブな自分の物語を信じない練習
私が最近本を読み実践しているマインドフルネスの瞑想の一環で、「自分が信じている自分のネガティブな物語を信じない練習」と言うのがある。これは、今まで私が行って来た中で、自己肯定感、自尊心が極めて低い人にかなり効果的だと思える手法で、起こった事象を歪めて捉えてしまった思考の癖を軌道修正すると言う意味では、CBT(認知行動療法)にも通じるところがあるように思う。
それは、忙しく働いている人のためのマインドフルネスの一環として毎日5分でできる瞑想なのだが、その発想がとにかく面白いと言おうか、今まであまり考えた事がなかったので、ここで紹介したい。
自分が思っている、自分を構築するネガティブな記憶を、信じないところから始める。記憶は曖昧な部分が多く、完全に正しい記憶など存在しない。それは常にあなたの考え方やあなたの世界の捉え方にどっぷりと依存している。
例えば、緊張症で人前に立てなかった自分がいたとする。そんな自分をあなたは恥じるかもしれない。そしてあなたは人前で話す事ができない自分は恥ずかしくて無価値な存在であると思う。
それは、人前で話す事ができる人が、自分ができない事ができる素晴らしい人間であるとあなたが勘違いしているので、「恥ずかしい」という気持ちが湧き上がってくるのだが、もうすでにあなたはその思いから逃れる事ができず、スピーチの練習をしにクラスに通い始めたり涙ぐましい努力をするかもしれない。その場合、しかしあなたが下手であるのは「スピーチ」そのものではなく、おそらく「大勢の人間の前に立つこと」である。
そうやって人前で話す事にこだわり、それができるようになるとさも幸せになれるようにまで思って、人前で喋る事ができなかった時の自分のネガティブな物語を何ども何ども思い出し、己を恥じ、「ああ、ダメだ!クソ!」と小さく悲鳴をあげる。Anxietyの出来上がりです。
いやそこまで行く前に、少し止まって、人前で喋るのが苦手だという自分自身へのネガティブな自分の物語を、一旦気持ちよく手放しましょう。案外、あなたは特に、人前で喋りたくも何ともないのかもしれません。
ネガティブな物語を手放す方法
この手法は、とても簡単です。なんども何ども繰り返し出てくるその嫌な1シーンに「本当の名前」を与えます。最初は、その嫌な記憶が蘇った時に、その記憶全体を「魔羅(マーラ)」と名付けるのも良いかもしれません。
実際に、釈迦の物語では、瞑想中に出てくる煩悩を釈迦は「魔羅(マーラ)」と呼びます。そしてその繰り返される煩悩(「煩悩」は「Anxiety」と訳される場合も多くあります)を正しく認識し、正しく名付け、言語化する事によって、頭の中で徐々に整頓できるようになって行く。これはつまり、カテゴライズの作業なのです。
いわば、フラッシュバックを起こす人々は、それがとても幼い頃の記憶であるか、もしくは今までの経験をはるかに超えたおぞましい(戦争などの)体験であるか、そこで共通しているのは、その体験を「言語化できなかった」という事です。言語化して記憶としてカテゴライズできないため、その感覚が瞬時に真空パックされ、凍結されて、何かしらの引き金の元に突然雪崩のように溶け出してくる訳です。
では、それを逆に言語化し、整理し直す作業を少しずつ毎日意識的にやってみようという事ですね。
初めは、嫌な記憶が蘇るたびに、悲鳴をあげそうになったら、それは「魔羅(マーラ)」であると抽象的に認識するところから始めます。釈迦が瞑想中、煩悩に苛まれた時に「魔羅(マーラ)よ、分かっている。お前だな。」と言ったのと同じ事です。
その癖がついたら、ではそれは具体的に自分にとってどんなものだったのかを考えます。例えば、人前で喋れず、大勢の人が沈黙の中でただ自分を見ているというその沈黙が「恐ろしかった」のであれば、「恐怖」とカテゴライズできるかもしれません。
不思議な事に、その魔羅(マーラ)に正確な名前を与える事ができると、魔羅(マーラ)は嘘のように力を失い、人々から簡単に、忘れ去られていきます。例えもう一度その嫌な記憶が蘇ってきても、ああ、これは恐怖なんだ、と自分自身で言語化し、整頓できるからです。整頓できると、次にそれに対しどう対処すべきかが自ずと見えてきます。もしかしたら対処しないでも、手放すだけでもいいかもしれません。
この一連のやり方を、リラックスして目を閉じ、一日5分、静かなところでやる、それだけです。瞑想しながらでもいいかもしれません。
もし、そうやって、ネガティブな自分の物語を手放す事ができれば、あなたは自分の思い込みから解放され、全然違う方向へ新しく始められるかもしれません。本来必要ではなかったこだわりを手放し、好きなものを思い浮かべ始めるでしょう。
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英国古本屋ライター:K·T·エリーズ
略歴:渡英後すぐ、イギリスの某大手IT企業に就職。IT/マーケティング資料/サポート記事の翻訳や校正を現役で担当中。ローカライズ歴5年目。プライベートでは、現地で結婚。夫婦の共通言語は英語。